ゆかしき世界 在るがまま

OSHO禅タロット・トートタロット・A Course In Miracles

ただ観照者のまま

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対極に移るのはまったくやさしい

たとえば、過食する人間にとって
断食するのはやさしい。
でも、節食するのは容易ではない。 

しゃべりすぎの人間にとって
沈黙するのはまったくやさしい。
でも、言葉を少なくするのはできない。

過食する人間にとって
ぜんぜん食べないことはまったくやさしい。 

それは対極だ。 

でも、適度に食べること、 
中間に至ることはまったく難しい。

また、誰かを愛することはやさしい。
憎むのもやさしい。
でも、ただ無関心でいることは
まったく難しい。 

人は一方の極から他方の極へと移る。
中間にとどまるのは まったく難しい。 

なぜか?
それは中間ではマインドがなくなるからだ。 

マインドは「極」に存在する。
マインドとは極端を意味する。
マインドは常に過激派だ。
味方するか、敵対するかのどちらかだ。
中立ではいられない。 

マインドは中立性とは相容れない。
「ここ」か「あそこ」なら存在できる。
なぜならマインドは
対立を必要とするからだ。 

マインドにとっては
何かに対立することが必要だ。
何にも対立しなかったら、
マインドは消え失せる。
もはやマインドの仕事はなくなる―
機能できなくなる。

これを試してごらん。
どんなやり方でもいいから、
中立的に、無関心になってみる。
すると、突然、
マインドは機能しなくなる。
何かに味方すれば思考が始まる。
でも、味方も敵対もしなかったら、
どこに考えることがあるのだろう。

ブッダいわく、
この無関心こそ中道の基本だ―
ウペクシャ、「無関心」だ。
極端に対して無関心になってみる。
すると、あるバランスが現れる。

このバランスは
新しい次元の感覚をもたらす。 

その次元では、
あなたは「知る者」であるとともに
「知られる者」であり、
この世界であるとともに
別世界であり、
「これ」であるとともに「あれ」であり、
体であるとともに心だ。
あなたはその両方であり、
また同時にそのどちらでもない。
あなたは両方の上にいる。
三角形が出現する。

みんな見たことがあると思うが、
神秘学や秘教的な結社では、
さかんに三角形が象徴として使われてきた。
三角形は最古の
神秘学的象徴のひとつだ。
というのも、
三角形には角が三つあるからだ。
人には角が二つしかない。
三番目の角は欠けている。
それはまだない。
まだ進化していない。
三番目の角は両方を超えている。
両方はそれに属している・・・・
その一部だ。
でもそれは両方を超え、
その上方にある。

この技法をやってみれば、
自分の中に三角形を作ることができる。
三番目の角は序々に現れる。 

そしてそれが現れたら、
もはやあなたから苦はなくなる。
観照できるようになったら、
あなたから苦はなくなる。
苦というのは
何かと同化することだ。

ただ、ここに微妙な一点がある。
観照できるようになったら、
そのときには至福との同化もなくなる。
だからこそ、ブッダは言ったのだ。

「私にはこうしか言えない―
そこに苦はない。
サマディーの中、
エクスタシーの中に、
苦はない。
だが、
そこに至福があるとも言えない」

ブッダいわく
「そのようには言えない。
ただ、そこに苦はないと言えるだけだ」

彼の言うとおりだ。
なぜなら至福とは、
いかなる種類の同化も存在しないことだからだ・・・ 
至福との同化でさえも。

これは大変微妙だ。
もし「自分は至福に満ちている」と感じたら、
やがて再び苦の中に入る。 

「自分は至福に満ちている」と感じることは、
再び苦へと入る準備をすることだ。
つまり、それもまた気分との同化だ。

たとえば、あなたが幸せを感じる。
そして幸福と同化する。
幸福と同化するとき、
不幸は始まる。

いまや、あなたはそれに執着し、
その反対を恐れ、
「いつもそれが自分のもとに
存在するように」と願う。 

それによってあなたは、
苦の出現に必要なものを
すべて生み出す。
かくして苦が現れる。 

そして、幸福に同化する人間は、
苦にもまた同化する。
同化こそ病気だ。

しかし、
三番目の点では何かに同化することはない。 

たとえ、何が来ようとも、
そして去って行こうとも、
あなたはただ観照者のまま、
見物人のままだ―
中立的で、無関心で、同化していない。

朝が来て、
太陽が昇り、
あなたはそれを観照する。
でも別に「私は朝だ」とは言わない。
やがて、昼になっても、
別に「私は昼になった」とは言わない。 

そして、
太陽が沈み、
闇が訪れ、
夜となっても
「私は闇であり夜である」とは言わない。
ただ、それを観照し、
そして言うだけだ。

「かつて朝があって、
昼になって、
夕方になって、
そして今、夜がある。
そしてまた朝になり、
この循環は延々と続く。
でも、私はただの傍観者だ。
私は観照を続ける」

もし、同じことが気分に対しても
可能になったら・・・・・

朝の気分、昼の気分、夕方と夜の気分・・・ 

気分には気分の循環があり、
延々と動き続ける。 

あなたは観照者となる。
そして、言う

「今、幸福がやってきた。
ちょうど朝のようなものだ。
そして今に夜がやってくる・・・・苦だ。
気分は朝をめぐって変わり続けるが
私は自分自身に中心を据えたままだ。
どんな気分にも同化しない。
どんな気分にも執着しない。
私は何も望まないし、
欲求不満に陥ることもない。
私はただ、観照者だ。
何が起ころうともそれを見る。
それがやってきたとき、
私は見る。
それが去るとき、
私は見る」

ブッダはこれを何遍も使った。
彼は繰り返し、
繰り返し言った、

「想念が現れたら、
それを見なさい。
苦の想念、幸福の想念が現れるとき、
それを見なさい。
それが頂点に達するとき、
それを見なさい。
そして、それが消え去るとき、
それを見なさい。
そして、それが傾き始めたとき、
それを見なさい。
そして、それが消え去るとき、
それを見なさい」

現れ、とどまり、消える・・・・・
あなたは観照者としてとどまり、
それを見つめ続ける。

この三番目の点が、
あなたを観照者すなわち「サクシ」にする。
そして、
観照者であること、
それは意識の最高の可能性だ。
            

Osho/ヴィギャン・バイラブ・タントラ
「存在とひとつに」より
OSAKA-Nakazaki Salon O'cchi        salon.occhi@gmail.com