ゆかしき世界 在るがまま

OSHO禅タロット・トートタロット・A Course In Miracles

成功しようがしまいが…

直感で生きる人は常に成功するだろうか?

 

 

そんなことはない 
でも常に、幸福だ…


成功しようがしまいが…


また直観に生きない人間は常に不幸だ…


成功しようがしまいが
成功は基準にならない 
成功はいろいろなものに左右される


幸福こそ基準だ 
幸福は自分次第だ

直感に従っても
成功するかどうかは分からない 
なぜなら競争者がいるからだ


たとえ自分が直感的に
行動したとしても、
往々にして他人はもっと
ずる賢く、利口に、手際よく、
暴力的に、半道徳的に
行動していたりする 


だから成功は、
他のいろいろなことに
左右される 


成功は社会的な現象だ 
だから成功するとは限らない

いったいイエスは成功しただろうか
磔は成功ではない 
最大の失敗だ


三十三歳で磔にされるのが
成功であろうはずがない 

彼は別に有名でもなかった
その弟子は何人かの村人、
無教育な人々だった 


何のチームもなく、
何の権力もなかった 
これが成功だろうか 

磔は成功とは言い難い
でも彼は幸福だった
彼はどこまでも至福に
満ちていた…
磔にされてもだ 


一方、彼を磔にした人々は
その後何年間も生きるが
ずっと苦悩の中だ


だとしたら一体誰が
貼り付けになったのか 
そこが問題だ 


エスを磔にした人間が
磔になったのか 
あるいはイエスが磔になったのか

エスは幸福だった 
どうして幸福を磔にできるだろう 
彼はエクスタシーに満ち溢れていた

どうしてエクスタシーを
磔にできるだろう

肉体なら殺せるが、魂は殺せない
彼を磔にした人々は生きている
しかし、その生は
まさにゆるやかな磔だ
苦悩に継ぐ苦悩だ

第一点、
内なる導き手に従ったからと言って
必ずしもが成功するとは限らない

世界の認める成功という意味では 
必ずしも成功するとは限らない 


しかし、
ブッダやイエスの認める
成功という意味では、成功する

その成功の基準となるのは、
幸福であり至福だ


何が起ころうと、
何が起ころうとも
本人は幸福だ

世界によって 
「お前は失敗者だ」と決めつけられようと 


あるいは
「成功の星」として祭り上げられようと
何の変わりもない 

あなたは幸福だ
どんな場合でも
あなたは至福に満ちている

私に言わせれば 
至福こそが成功だ


至福こそ成功だと
理解できれば 
「内なる導き手に従う人間は
常に成功する」ということができる

ところが人々にとって
至福は成功ではない 
成功はもっと他のものだ


その成功は不幸であるかもしれない
不幸になると承知していながらも
人々は成功を求める

政治的指導者を見てごらん
彼らは不幸の中にいる
私はいまだかつて一度も、
幸福である政治的指導者を
見たことがない
ただ不幸であるばかりだ
にもかかわらず、
もっと高い地位をうかがっている
もっと高く梯子を
昇ろうとしている

自分より上にいる人間も
また不幸だ…

そのことは自分でも 
よく承知している


ところが 私たちは
成功を前にすれば、
不幸もいとわない


一体私たちにとって成功とは何か 

成功とはエゴ的な成就だ 
至福ではない

他人から
「あなたは成功者だ」
と言ってもらいたいだけだ

たとえすべてを
失っていようとも…


魂や、至福をもたらす無垢や、
自分を神に近づけてくれる平安や、
静寂などを失っていようとも 
全くの狂人になっていようとも 
世界はあなたのことを
きっと「成功者だ」と言うだろう

世界にとっては 
エゴの満足こそが 成功だ


私にとっては違う
私にとって成功とは至福に
満ちることだ 

世に知られているかどうかは
どうでもいい 


世に知られているか 
あるいは全く知られず 
埋もれたままか
そんなことはどうでもいい 


もし至福に満ちていれば  
それこそが 成功だ

この区別を覚えておくように


世の中には世間で成功するために
直感的になろうとか
内なる導き手を見つけようと
している人々が大勢いる 

そうした人々にとって 
内なる導き手は
きっと期待外れになるだろう 


第一に、そうした人は
内なる導き手を
見つけることができない 


第二に、
たとえ見つけたとしても
きっと彼らは不幸だろう 


彼らの求めていることは
それは世間からの認知であり、
エゴの充足だ


至福ではない

 

Osho

Challenge

 私たちは悲しみを経験し、

 それと同時に喜びと幸せを経験することで、

 より豊かになってゆく…

48.Challenge

 私は古くからあるたとえ話を聞いたことがある。非常に古いにちがいない。

というのも、そのころ神は度々地上に現れていたから……

 

 ある日、ひとりの年老いた農夫がこう言った。

「いいですか、あなたは神かもしれないし、世界を創ったかもしれない。でも、私はひとつのことだけはあなたに言わなければなりません、あなたは農夫ではないのです。あなたは農業のいろはさえ知らないのです。少しは学んだらどうですか」

 神は言った。

「どうすればいいのかね?」
 

 農夫は言った。

「私に一年という時間をください。そしてものごとをただ私の言うとおりにしてください。それでどうなるか見てほしいのです。貧困はすっかりなくなっているでしょう!」


 神は喜んでそうした。そしてその農夫には一年が与えられた。

 

 当然、彼はもっとも良いものを求めた。

 雷鳴はない、強い風はない、穀物に危険はないといったことしか考えなかった。

 あらゆることが快適で心地よかったので、彼はとても幸せだった。

 

 小麦はほんとうに高く育っていた。

 彼の望みに応じて、太陽が欲しいときには太陽が照り雨が欲しいときには雨が降った。

 

 この年はすべてにまちがいがなかった。数学的に正しかった。

 小麦は特に背高く育っていた。

 

「見てください! 今度の穀物は、たとえ人びとがこれから先十年は働かなくても充分なほどになるでしょう!」


 だが、穀物が取り入れられると、なかには小麦がなかった。農夫は驚いた。

 

「どうしたのでしょう?なにがうまくいかなかったのでしょう?」


 神は言った。

「チャレンジがなかったからだ。争い、あつれきがなかったからだ。お前が悪いものをすべて避けたために小麦は能力がないままだった。少しの争いは必ず必要なものだ。嵐は必要だ。雷鳴、稲妻は必要だ。それらは小麦のなかの魂を揺り起こす」

 


 このたとえ話には途方もない価値がある。

 もしあなたが幸せで、幸せで、ただ幸せなだけだったら、幸せはすべての意味を失う。

 

 それはまるで、誰かが白い壁に白いチョークで書いているようなことになるだろう。

 彼は書きつづけることはできる、だがけっして誰もそれを読むことはできないだろう。


 夜は昼と同じだけ必要だ。

 そして悲しみの日々は、幸せの日々と同じように欠かすことができない。

 

 これを私は理解と呼ぶ。


 そして、徐々に徐々に、

 生のリズムを、

 二元性のリズムを、

 両極性のリズムを見れば見るほど、

 あなたは求めるのをやめ、選ぶのをやめる。

 

 あなたは秘密を見出したのだ!

 

 この秘密とともに生きることだ。

 そうすれば、あなたは驚くだろう。

 

 生の祝福はなんと偉大なのだろう! 

 瞬間ごとに、いかに多くの祝福があなたに注がれていることだろう! 

 

 だが、あなたは自分の期待のなかで

 自分の小さな取るにたりない欲望のなかでずっと生きている。

 ものごとがあなたの欲望にかなっていないと、あなたは惨めだ。


 あなたがものごとの本質に従うとき、

 どのような影も投げかけられない。

 

 そこには惨めさがなく

 悲しみすらも輝いている。


 悲しみが来ないというのではない。それはやってくる。

 

 悲しみが、敵ではなく友となる。
 なぜなら、その必然性がわかるからだ。

 

 神の恩寵が見えてくるだろう。

 そして、起きてることの必然性が見えてくる。

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